Go for and back to 70's

70年代の若かりし頃に帰る心持ちで先の70を目指す

2014-03-30-Sun-22:28

神の慰め

春の嵐が吹き荒れる日曜日でした。

嵐の中、教会までよう足を運ばなかったので、一人で礼拝を守りました。


神の慰め

イザヤ書42:14~21, エフェソ5:8~14, ヨハネ9:13~25

 精神科医のヴィクトール・フランクルは、戦争が終わり,ウィーンに帰って間もないある日、友人を訪ね、自分の家族の死を報告しました。彼は突然泣き出して、友人にこう言ったのです。
 
 「こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには、何か意味があるはずだよね。僕には感じられるんだ。あたかも何かが僕を待っている、何かが僕に期待している、何かが僕から求めている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ」と。
 
 さて、弟子たちはキリストに尋ねました。《この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか》。キリストはお答えになりました。《本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである》。
 
 キリストにとって大切なのは、この生まれつき目の見えない人の苦難の原因を、詮索することではありませんでした。そうではなくて、この人の目を癒して、神の業を現わすことだったのです。いわれのない苦難が存在するとき、苦難の原因を追及することではなく、苦難の目的と意味を問うことが大切なのです。
  
 パウロはこう言っています。《神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます》(第2コリント1:4)
 
 苦しんでいる私が神からいただく慰めによって、苦難の中にある他の人々を慰めることができるのです。ここに苦難の目的と意味があるのだ、と思います。もちろん、苦悩すること自体が、私たちの目的なのではありません。私たちは、自らの苦悩を越えて、他の人のところへ行くのです。私たちは、キリストから与えられた慰めによって、苦難の中にある人々を慰めるわけです。意味のある苦しみとは、何かのため、誰かのための苦しみなのです。(家庭礼拝のための聖書日課よりー沼崎勇牧師)



とても考えさせられる解説でした。かつて長い人生のほんの一瞬ですが、いわれのない苦難を経験した私ですが、はたして苦難の中にいる人を慰めることができるのだろうか。まだまだ信仰心の弱い私です。


午後からジムで水泳しました。

インターバル50m80s×6, 50m75s×4
ロング400m, ダウン50m×2
水中ウォーク50m×4
合計 1200m


嵐が去った須磨の海
IMG_8329_convert_20140330213350.jpg


今日の運動

スイム 1,200m

自転車(カメ号)4km


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